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敵陣右翼中備大将
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
伊勢貞運 | 手槍二刀侍 | 55 | ||
風魔中忍 | 忍者 | 50 | ||
修善寺僧 | 僧侶 | 50 | ||
伊豆衆闘兵 | 陰陽 | 50 | ||
鶴ヶ岡神官 | 神主 | 50 | ||
伊豆鍛冶衆 | 鍛冶 | 50 | ||
武蔵野薬採り | 薬師 | 50 |
生年は不明。「改正三河後風土記」では定宗と伝わる。又七、備中守。伊勢貞陸の子。伊勢貞辰と同一人物と考えられるが証拠は無い。
北条家本家とは縁続きであり、御家中衆の筆頭として武蔵入東郡田嶋郷と御蔵出に95貫の知行を持っていた。近くである武蔵入東や相模中郡八幡郷などに約253貫を保有していた伊勢貞就とは、何らかの縁(父、または兄)があるようだが定かではない。
評定衆の一人であったとも考えられているが、裁許印判状では彼が著判したものは見当たらない。
1590年の小田原の役では小田原城を出て野戦に持ち込むことを真っ先に主張、はじめ降伏論のち籠城論を説く松田憲秀と激しく対立するが、結局籠城論が通り、北条家は小田原城に籠城、彼は小田原城が開城するまえに討ち死にしたという。
文化人でもあったらしく、それらの交流の記録が残っている。
家中でも最大規模の勢力を持っていた松田憲秀と真っ向から対立できる地位は家内では北条宗家以外には彼を除いておらず、まさに北条家後期の重臣である。