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後詰
猛将
○○○○! はっはっは、また会えたな! 今日こそはわしが勝つぞ!
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
磯野員昌 | 刀侍 | 60 | 破突十一段、武運長久、霧散霧消、守護術 | |
甲賀中忍 | 刀忍者 | 55 | 神力両断・改、各種遁術・極 | |
福田寺高僧 | 槍僧 | 55 | 全体完全回復、完全回復、後光、気合撃・四 | |
殿原衆精鋭 | 懐剣陰陽 | 55 | 万雷、竜巻、結界・参、呪縛・参 | |
竹生島神官 | 剣神主 | 55 | 詠唱の韻・極、神雷、神風 | |
国友上級鍛冶 | 鉄砲鍛冶 | 55 | 三段撃ち、陽動、守護術 | |
伊吹山山伏 | 懐剣薬師 | 55 | 蘇生・壱、霧散 |
丹波守、伊香郡高月町磯野領主、磯野城、佐和山城主。織田信行の子・信澄の養父でもある。
員昌は丹波守を称し、近江の戦国大名浅井氏に属して数々の戦場に出陣し、磯野氏歴代のなかでもっとも名をあらわした。員昌は浅井亮政が京極氏の拠る高島城攻撃を企図したとき、その軍議に加わり合戦になるとその先陣をつとめている。また、浅井氏と六角氏とが戦った四つ木の合戦には、浅井氏の一方の大将として出陣し奮戦した。
浅井氏は北近江の大名に成長したとはいえ、南近江の戦国大名・六角氏には押されぎみであった。永禄年間(1558〜69)、六角氏は坂田郡米原にある太尾城を占領し、浅井氏を脅かした。太尾城は浅井氏に属する国人・今井氏の支城で、これが占拠されたことは浅井、今井両家はもとより、佐和山城の磯野氏にしても看過できない事態であった。今井定清は夜襲をもって太尾城を奪還しようとし、浅井長政に救援を求め、長政は磯野員昌に今井氏応援を命じた。ところが、今井氏と磯野氏の間で夜襲に関する取り決めが不備だったのか、今井定清は員昌の部下によって誤殺されてしまった。
合戦後、定清の思いがけぬ死に対して長政は弔慰を示し、員昌も部下の失態を深く詫びて今井氏に起請文を送っている。そして、定清の遺児をもりたてることを約束している。しかし、この今井定清横死のことは、今井氏の進退の曖昧さを疑った浅井氏の陰謀が背後にあったともいわれる。
やがて、尾張の織田信長が勢力を拡大するようになり、長政は信長の妹・お市を妻に迎えて信長と同盟関係を結んだ。しかし、元亀元年(1570)、信長は浅井氏と親しい、越前・朝倉氏攻めを開始した。このとき、浅井氏は朝倉氏を支援するか、信長に味方するかで意見が分かれたが、結局、朝倉氏を支援して信長に対立する道を選んだのである。
かくして同年6月、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とが姉川で激突するに至ったのである。これが、戦国史上有名な「姉川の合戦」である。この戦いに磯野員昌は浅井軍の先鋒となり、精兵五百余を率いて織田軍に突撃した。磯野勢は織田方の坂井政尚の軍を一蹴し、進んで池田信輝の軍を撃破し、さらに木下藤吉郎、柴田勝家の陣を突破し、森長可の軍と戦いを交える奮戦ぶりを見せた。しかし、衆寡敵せず、浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍のために敗軍となった。大勢の決したことを察した員昌は、ただちに兵をまとめ、氏家・安藤らの諸軍を突破して、居城・佐和山城に逃げ帰った。
ほどなく、織田軍が佐和山城を攻撃してきたが、員昌は城を堅く守ってこれを撃退した。以後、佐和山城に立て籠って、織田軍の包囲勢と対峙した。員昌は包囲軍の将・丹羽長秀より降伏を勧められたが、それをいれず籠城を続けた。翌元亀二年、信長は兵二万を率いて近江に出陣してきた。その事態に際して員昌は、小谷城の長政に援兵を求めたが援兵は来ず、ついに員昌は佐和山城を出て小谷城に入らんとした。しかし、員昌を疑う長政は入城を拒んだため、ついに員昌は織田軍に投降するしかなかった。その後、近江・浅井氏は織田軍の前に滅亡した。
信長は降った員昌を高島郡に移し、小川城主に封じた。信長としては、近江土着の磯野氏をして近江国の治安にあたらせる狙いがあったようで、員昌も信長から相応の権限を与えられていたようだ。しかし、のちに信長の怒りを買い、出奔して行方知れずになったという。系図によれば、員昌には男子一人、女子二人の子どもがあったといい、長男は加茂三郎と称し、のちに森惣左衛門と改め、森村に蟄居したと伝えている。