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後詰
勇将
名前 | 職業 | レベル | 初期状態 | 主な使用技能 |
---|---|---|---|---|
宮部継潤 | 棍棒僧 | 60 | ▲▲ | 怒涛の攻勢、天部光輪 完全回復 全体完全回復 僧兵連撃・改 蘇生・壱 |
国友上級鍛冶 | 鉄砲鍛冶 | 55 | 陽動、守護術 | |
甲賀中忍 | 刀忍者 | 55 | 神力両断・改 瞬殺閃 五連撃 各種遁術・極 | |
殿原衆精鋭 | 懐剣陰陽 | 55 | ||
堅田衆姉御 | 刀傾奇 | 55 | 詠唱の韻・極 | |
浅井精兵 | 刀侍 | 55 | 一所懸命 沈黙の霧・壱 全体看破・弐 蘇生・壱、守護術 | |
伊吹山山伏 | 懐剣薬師 | 55 | 蘇生・壱 |
浅井家臣。はじめ叡山の僧。主家滅亡後は織田信長に属す。 羽柴秀吉率いる中国征伐軍の先鋒を務め、因幡鳥取城主となった。 晩年は秀吉の御咄衆となった。
土肥氏、孫八、善祥坊、中務卿法印。
近江浅井郡宮部の出身で、もとは比叡山の僧侶という。近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えた。
武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍したが、元亀2年(1571)10月頃に、横山城の秀吉の誘いにより織田家に降った。
そのまま、対浅井氏の最前線となった宮部に入れ置かれ、浅井氏滅亡後には秀吉の与力となる。秀吉が播磨に入国するとこれに従い、但馬方面の征服戦に従軍。但馬二方郡を領地として豊岡城に置かれる。その後は秀吉の弟である秀長の指揮下に入って山陰方面を担当。天正9年(1581)10月に鳥取城が陥落すると、城主として入城した。
本能寺の変後はしばらく毛利氏の押さえとして鳥取城に在住したが、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦では、兵2500を動員した。その後に中務卿法印(中務省長官)に叙任されて、九州征伐の陣立書には「四千 宮部中務法印」と登録されている。天正17年(1589)時点で5万970石であろう。文禄2年(1593)には8万1000石であった。~
豊臣政権下では重用されており、晩年は五大老に次ぐという地位にいた。
文禄5年(1596)、高齢を理由に子・長房に家督を譲って隠居した。