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忍者
中備
○○○○? 俺の耳にも 届いておらぬ名前だ。 よほど無名なのだな……。
俺の一太刀を受け止める ことなどできまい。 諦めどき……だな?
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
朽木元綱 | 刀忍者 | 55 | 追討一閃、戦慄の黒荊、赤烏、紫燕殺、各種上遁術・弐 | |
朽木谷荒武者 | 薙刀侍 | 50 | 五連撃・改、一所懸命・極、守護術 | |
朽木谷の坊主 | 僧 | 50 | 金剛力、完全回復 | |
京陰陽寮碩学 | 陰陽 | 50 | 雷滅等全体術、黒道凶禍、千紫万紅、森羅天翔・改 | |
島原花魁 | 傘傾奇 | 50 | 詠唱の韻・極、各種龍閃・改、各種槌舞 | |
山城国人衆 | 棍棒鍛冶 | 50 | 守護術 | |
曲直瀬助手 | 薬師 | 50 | 蘇生・壱、完全治療 |
朽木晴綱の子。弥五郎。信濃守、河内守。号して牧斎。1549年生まれとされる。
朽木家は佐々木信綱の次男である忠信が近江高島郡田中郷に領して高島となのったのがはじめとされている。その子孫が朽木と名乗った。佐々木氏は宇多源氏の流れであり、六角、佐々らと同門である。
朽木とは近江国朽木荘のことであり、俗に朽木谷とよばれる交通の要衝であり、また要害の地でもある。
1460年に朽木谷は幕府御領所となったため、実質的な足利将軍家直臣となる。同時期に宇多源氏の主流にあたる六角が足利に対して挙兵すると、朽木家はこれに敵対している。その後六角家臣となり戦国期にいたる。
1551年には足利義輝は朽木谷に逃げ込みかくまわれている(なお、1528年にも足利義晴が同地に逃げ込んでおり、同地の特徴である山間盆地が、隠れるのに好都合であったと考えられている)。
元綱は朽木晴綱が1551年に死去したため2歳で家督を継ぐ。将軍を代々援助していた経緯から幕府の奉行衆に列せられた。
しかしこれは足利家直臣ではなく、あくまで独立勢力であり、朽木家はのち朝倉家についている。また、浅井とも同盟関係を結んでいたようで、1568年の書状が残されている。
しかしその後、信長が浅井家の裏切りによって窮地に立たされると元綱は信長の朽木谷越えにおいて道案内をつとめ、織田家臣となる。1570年のことである。しかし、その後の直接従軍の資料などがなく、いまひとつ不明な点が多い。
1582年に信長が死去、秀吉が実権を掌握すると元綱はこれに仕えることとなる。2万5千石(蔵入地は900石)を領する大名となるとともに直轄領の代官に任ぜられ、太閤検地などにも携わる。
1600年の関ヶ原でははじめ西軍の大谷吉継に従いこれに従軍するも、事前よりの東軍との密約に従い合戦中に東軍に寝返り大谷陣を攻撃する。小早川勢に側面を突かれるのは予想していた大谷吉継も次々と寝返る西軍諸将の前に敗北する。
この功により朽木は減封処分はあったものの先祖元来の土地である近江高島9595石を安堵される。これは先祖伝来の朽木谷一帯を保有したことになる。1632年、84歳で死去。領地は子に平等分配されたため、大名を保つだけの石高がなくなり大名でなくなってしまうが、後に朽木稙綱が若年寄になり2万石を拝領すると分家が大名家として復活した。また、宗家も参勤交代などはうけており、大名家に順ずる扱いとなっている。
彼はわかっているだけで足利、六角、朝倉、織田、豊臣、徳川と続々と主君を変えている。しかし彼の伝来の土地である朽木谷は先にも書いたように交通の要衝であり天険の地である。1460年には幕府御領となってしまい毎年100貫を貢納させられる羽目になるなど、諸勢力からすれば非常に重要な土地であった。元綱は一貫してこの先祖伝来の土地を守るための行動をとっていただけである。近江は戦国における激戦地であり、この地における所領を保った彼の手腕は評価できる。
彼はよく関ヶ原における裏切り者と揶揄されるが、決してそうではない。鎌倉時代より治めていた朽木谷を守るための行為が、結果として裏切りとなったのである。