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島津義弘専用技能
壱〜四まである。(お供が4体の為)
発動準備なし。
島津側の徒党員が一人倒れるごとに発動、1の与ダメup被ダメup、参で行動不動耐性がつく。
初期状態では被ダメ9割カット、壱弐参と進むごとに 7割前後、5割前後、2割前途カットとなりダメージが通るようになる。四の場合はカットなしになると推測 ただしその分1の与ダメージが2割前後、5割前後、7割前後増しとなっていき、1の生命が4分の1を割ると複数攻撃を連打するようになるので、お供をどれくらい残すのかがポイントになる
本隊が撤退する際に「殿(しんがり)の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、死ぬまで追ってくる敵軍を足止めさせる。それが全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。
関ヶ原の際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し、周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて戦場から撤退した。それは退路に点々と数人ずつ銃を持った兵達を、敵に視認しづらくし、さらに射撃時の命中率向上の為、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが、忠吉と直政が重傷を負い、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。忠吉と直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。銃の装備率が高く、射撃の腕も良く、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは80余名であった。
ちなみに「がまり」は屈む(かがむ)の意味と思われる。同様の言葉として伏兵のことを伏せ屈り(草屈り)と呼ぶことがある。