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侍
なし
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
松本景繁 | 槍侍 | 50 | n連撃・改、蘇生・壱、一所懸命・改、真剣勝負 | |
担猿くノ一 | 忍者 | 45 | 蘇生・壱 | |
越後僧兵 | 僧 | 45 | ||
越後陰陽師 | 陰陽 | 45 | 轟雷等各種陰陽道全体術、雷斧等各種準備無し属性単体術、太極陣 | |
北信濃巫女隊 | 懐剣巫女 | 45 | 詠唱の韻・極 | |
力士衆見習い | 刀鍛冶 | 45 | n連撃・改、怒号 | |
南越後薬師 | 薬師 | 45 | 蘇生・壱 |
石見守。生年は不明。
越後の国人であり上杉謙信の旗本でもあったほか、奉行人でもある。
第4次川中島合戦に参戦したという武将の一人でニ十八将の一人に数えられる。
越後国三島郡小木城(小木ノ城、小萩とも)主であるがどういう経緯で城主となったかは不明。
もともとこの城は小木氏の居城であり、松本が入ったのは謙信の代である。また、彼の後は雲上寺忠経という人物に城主は移行している。その後は松本忠範という人に城主が移っているが、この人物と松本景繁の関係はよくわからない。
1565年には上野沼田城に守将として入ったのがわかっているほか、1569年に締結された相越同盟では、その成立に活躍したとされる。どうやら北条側と上杉側の仲介を行っていたようである。
このとき北条家は北条氏照、北条氏邦の2人が別個に交渉していたが、彼は氏邦側の交渉を受け持ち、河田重親、小中家成といったほかの沼田城将とともに行ったようである。
1570年にあった上杉景虎の養子縁組のさいの交渉役も勤めたようである。
没年は不明。
彼は名前からわかるとおり、景の字を得た上杉家家臣である。しかし、足跡ははっきりしているものの、いまひとつ実像ははっきりしない。
二十八将によれば、彼は第4次川中島の武功により謙信より感状を送られているという。
しかしその後の足跡は武官というよりは文官よりであるし、その後の武功は特に伝わらない。
また、生没年、前半生など不明な点が多く、今後の資料探索が鍵を握っている。