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陰陽師
中備
○○○と申すのか。 五色備えの漆黒の力! 見せてくれよう!
名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
---|---|---|---|---|
多目元忠 | 刀陰陽 | 55 | ▲結界 | 五色備の漆黒 |
小田原石工 | 棍棒鍛冶 | 50 | 守護術 | |
武蔵野薬採り | 懐剣薬師 | 50 | ||
川越衆精兵 | 薙刀侍 | 50 | 守護術 | |
鶴ヶ岡神官 | 剣神主 | 50 | 詠唱の韻・極 | |
風魔中忍 | 懐剣忍者 | 50 | ||
修善寺僧 | 槍僧 | 50 |
実像はかなり不明な点が多い。生没年も不明。多目周防守と同一人物か?
この人物に関する列伝は川越夜戦において北条氏康隊が突出したために独断でほら貝を吹き撤退をさせる。この功が伝わっているのみである。
一応御由緒衆に列せられ、5家老の一人でそれぞれが率いる五色備えの黒を率いていたようなのではあるが、このあたりも不明な点が多い。
なお、この人物の実像をとく鍵となりうる可能性の存在として多米(タメ)一族がある。これは相模西郡正福寺分や武藏久良木郡青木など約148貫を知行した一族で、多米元興を始まりとする。伊勢宗瑞(北条早雲)の駿河下向に従ったとも、武者修行の途中に宗瑞に仕えたとも言われる一族である(後者が説としては有力)。
多目元忠とこの多米氏との関係はまったく不明である。しかしながら混同されて多目元忠の列伝となって紹介されている場合も相当に多い。
元忠と同一人物の可能性がある多目周防守は武蔵青木城主に任ぜられ、武田勢との合戦では駿河泉頭城を守り、1590年の小田原の役では上野西牧城を守り討ち死にとなっている。
しかし、この経歴は多米一族の多米元興とその子長定の経歴とまったく変わらないといっていいほど一致している。なお、多米元興は周防守を名乗っていため、余計にややこしい。
可能性としては、多目=多米で同一人物(当時こういう具合に資料によって字が違うのは結構ある。風間と風魔、加藤と加当など)、多目元忠は少ない資料から作り出されて、さらに多米親子と混同された偶像的な人物(軍記類や後世に書かれたもので起こった可能性がある)、といった仮説がいくつか考えられるものの、どれも確証はまったくない。
彼については新たな資料が発見されるのをまつしかないのが実情であろう。