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陸奥 : 『と−ホ』付近
名前 | レベル | 徒党数 | 備考 | ドロップアイテム | 見破り |
大崎氏門衛 | 27-30 | 1-7 | ○ | ||
反乱手引き | 28-33 | 1-7 | |||
奥州落ち武者 | 34-37 | 1-7 | |||
笠原一門衆 | 28-37 | 1-7 | 小さな手水鉢【家具】 | ||
大崎一門 | 30-37 | 1-7 | |||
大崎一門衆 | 31-37 | 1-7 |
大崎家は前九年の役・後三年の役で活躍した源義家の四男・義国(義国流)の流れを汲む。
義国の次男・義康は足利家の祖でもあり、大崎家は同じ流れに属する。
この流れには足利家(足利義輝・足利義氏など)をはじめ、畠山家(畠山義続など)、細川家(細川晴元・細川藤孝など)がある。
他には三河吉良家(吉良義安・吉良義昭)、今川家(今川義元・今川氏真など)が該当する。
足利義康の曾孫・泰氏の子・家氏は陸奥国斯波郡(現在の岩手県盛岡市及び紫波郡)を所領としてこれを苗字とした。
ただし、直接斯波姓を名乗ったのは斯波家4代当主・高経のころとされている。この子孫に斯波義銀がいる。
斯波家3代当主・宗氏の子・家兼(高経の弟)は奥州斯波家の祖として、陸奥の地に土着した。
但し、奥州斯波家に関しては高経の子・家長を祖とするものもある。
また、家兼は大崎家の祖でもある。
長男・直持は大崎姓を名乗り、次男・兼頼は最上家の祖となり、その末裔に最上義光がいる。
大崎家3代当主・詮持(直持の子)は1400年に奥州探題に任じられるが、鎌倉公方への謀叛が露見して殺害された。
絶大な権力を振るっていており、伊達家・南部家・葛西家などの大名は主君と従っていた。
しかし、年代が下ることに大崎家の基盤の軟弱さもあり、どんどん衰退していった。
7代当主・教兼の代は大崎家最後の栄光とされ、子女に恵まれていたこともあり、各地に嫁がせたという。
うち娘の1人は伊達成宗に嫁ぎ、尚宗(伊達政宗の高祖父)を産んでいる。
また、息子の1人は奥州斯波家の養子となったとされている。
教兼の晩年になると石巻・寺池周辺を治めていた葛西家と対立するようになり、100年間争うこととなる。
教兼の孫・義兼の代になると、いよいよ勢力も衰退していって1488年には領内で反乱が起きてしまう。
義兼は一時伊達尚宗を頼って落ち延びるが、この一件が原因で伊達家の介入を受けることとなった。
義兼の次男・義直(大崎義隆の父)の代になると、再び大崎家の内乱により伊達家の介入を受けて伊達稙宗(尚宗の子で政宗の曽祖父)の子・義宣に家督を奪われてしまった。
しかし、稙宗・晴宗父子の対立から生まれた天文の乱では晴宗方につき大崎義宣を討ち取ることに成功し、伊達家の呪縛から脱した。
だが、それでも事実上従属状態であり、勢力回復とはならなかった。
義隆の代になるとますます勢力は衰微していき、葛西家との抗争も激化し、内乱も勃発するようになる。
1586年には大崎家で再び内乱が勃発すると、伊達政宗の介入を受け、2年後には大崎合戦と呼ばれる伊達家との戦いに発展した。
内乱の原因は義隆が寵愛していた伊庭野惣八郎と新井田隆景という2人の美少年である。
義隆は男色を好み、2人を寵愛していたが2人は対立し、内乱へと発展していった。
余談だが、西の大大名である大内義隆も男色を好み、毛利元就の三男・小早川隆景を寵愛していた。
結果として義隆は政宗に屈服し、半独立状態へと追い込まれた。
豊臣秀吉の小田原の陣では参陣しなかったため(というか政宗が牽制して参陣させなかった。)、奥州仕置で改易されて大崎家は滅亡した。