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2007年6月13日のアップデートで武将の強さ、職が変わっています。個別ページの情報と違っている場合がありますので、ご留意ください。
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敵 陣 占 領 後 陣 営 | ||
敵右後 | 敵中後 | 敵左後 |
---|---|---|
浅見貞則 | 河毛清旨 | 大野木秀俊 |
敵右中 | 敵中中 | 敵左中 |
樋口直房 | 三田村国貞 | 久徳義時 |
敵右先 | 敵中先 | 敵左先 |
今村氏直 | 多賀常則 | 岩脇定政 |
左先 | 中先 | 右先 |
片桐且元 | 渡辺了 | 田中吉政 |
左中 | 中中 | 右中 |
小川祐忠 脇坂秀勝 | 阿閉貞征 小堀政次 | 新庄直頼 弓削家澄 |
左後 | 中後 | 右後 |
藤堂高虎 安養寺氏種 | 宮部継潤 月ヶ瀬忠清 | 磯野員昌 井戸村光慶 |
《本 陣》 | 《小荷駄》 | |
浅井長政 浅井久政 雨森弥兵衛 海北綱親 遠藤直経 赤尾清綱 | 井口経親 | |
初 期 陣 営 |
井口経親 | いぐち つねちか | 薬師 | Lv60 | 奉行 |
門衛 | もんえい | 侍 | Lv35-36 |
時代は今から約500年ほど前の戦国時代にさかのぼります。
北近江の浅井氏が、戦国大名として台頭するのは、亮政の時代からです。それまで南近江は六角氏、北近江は京極氏が守護大名として覇を競っておりました。
その京極氏が大永3年(1523)高清の時、跡目争いが起こりました。次男・高慶をたてようとする執権・上坂信光派に対抗し、家臣の浅井氏らが長男高延を擁して、クーデターを起こしてその勢力を一掃し、小谷山上に築城して京極父子を迎えたのが始まりです。
二代目・久政は、長男・新九郎に六角義賢の一字をもらい受けて賢政と名乗らせたり、賢政に六角氏の家臣の娘を娶(めと)ったりと、勢を争う南近江の六角氏との「協調路線」をとりながら、領内の水争いを治め、部下の武将を掌握し、支城網を固めながら力を蓄えていきました。亮政と長政の活躍ぶりが目につくので、久政は地味に見えがちですが、戦国大名・浅井氏の発展にとってかなり重要な役割を演じていたといえます。
しかし、六角氏との協調路線に反対の賢政は、何人かの家臣と組んで父・久政を隠居させ、六角義賢と手を切ってしまいます。そして永禄3年(1560)8月、当時16歳の若さにして、2倍半におよぶ六角義賢軍を野良田(彦根市野良田町)に打ち破り、賢政という名を長政に改め、一躍その名を馳せることになります。長政がこのように思い切った行動に踏み切ることができたのも、小谷城という要害堅固の城があったからであろうといわれています。
こうして、北近江の独立した戦国大名として歩み始めた長政ですが、軍事的に見て孤立したままでいるのは危険でした。浅井氏は、先々代・亮政の時代から越前の朝倉氏と同盟関係にあったわけですが、ここでもう一つ新しい同盟の動きがもち上がってきます。それが織田信長です。当時、上洛を志す信長にとって浅井氏の実力は重大な関心事となっていました。そこで。信長は自分の妹であるお市の方を長政に嫁がせ、同盟を結びます。
しかし長政・お市(小谷の方ともいう)の築いた平和な家庭も十年余りにして崩れるときがきます。元亀元年(1570)4月、信長が突如、湖西路を通り、越前の朝倉義景を攻めたとき、長政は朝倉氏との同盟関係の方を重視し、織田軍の退路を断ちます。信長は、命からがら京都に逃げ帰り、6月にはその報復のため、徳川家康の援軍を得て近江に出陣してきます。そして、6月28日卯刻(午前6時)、浅井・朝倉軍は姉川を挟んで織田・徳川軍を迎え撃つことになります。これが、「姉川の合戦」です。前半戦は浅井・朝倉軍有利のうちに進み、浅井軍先鋒の磯野勢は数倍にも及ぶ軍勢の信長の本陣まで斬り込みました。しかし、朝倉勢が退き、三方を包囲されるに及んで、巳刻(10時)遂に小谷城へと敗走せざるをえなくなりました。
姉川の戦いでは約5万3千人の兵士が戦ったと言われ、美しかった姉川の水はまっ赤な血の色となり、何千人もの死体が河原を埋めたといいます。その辺りにはいまでも「血原」という地名が残っています。
この日から、天正元年(1573)の落城の日まで、3年余りの長い籠城生活が続くわけであるが、小谷城はその3年間に修築と補強が行われ「戦国五名城」に数えあげられる堅固な城に仕上げられていったのです。
長政は、石山本願寺の顕如とむすび、湖北一向一揆を味方に、また、比叡山延暦寺とも結んで信長に抵抗します。さらには武田信玄とも結んで、信長包囲網の一環に重要な役割を果たします。しかし、信長は浅井方の武将を誘降し、横山城や虎御前山砦を小谷城に対する付け城として攻めたてます。
結局、天正元年4月12日に武田信玄が病死したのをきっかけに足利義昭が追放されると、信長は朝倉義景を破り、ついに8月27、28日両日の織田軍の総攻撃によって久政、長政ともに自刃し、小谷城は落城してしまいます。
絶大な信頼を寄せていた妹婿の反逆に対する信長の怒りは深かったと見えます。長政とその父・久政、そして朝倉義景の首級は京都へ送られたのち、獄門にかけられました。しかし、それでも恨みが晴れなかったらしく、首級を箔濃(ハクダミ…漆塗りの上に金粉を押したもの)にして保存し、天正2年の年賀の席でこれら頭蓋の箔濃を肴に大喜びしたという、信長の狂気が垣間見えるエピソードが残っています。
「浅井」の読み方は「あざい」「あさい」の2通りがあります。
一般的に「あさい」と読まれることが多いようですが、「浅井三代記」の振り仮名から判断すると「あざい」。
また、子孫の人いわく「あざい」が正しい読み方のようです。
金箔頭蓋骨の逸話に関しては、有名なのですが、どうやら後年(江戸時代)の創作である可能性が強いようです。 江戸時代には、徳川家の権威や正当性を示すために、信長のようにな男には天下を任せられなかったとする逸話が多く捏造されたのです。