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1545-1612 南近江の戦国大名。
六角承禎の嫡男。母は畠山義総(畠山義続の父)の娘。
1563年、六角家の重臣であった後藤賢豊親子を観音寺城内で誅殺(観音寺騒動)。これを契機として六角氏の家中は乱れ始める。
1567年には、主君の権限を抑える分国法である六角氏式目に署名することを余儀なくされた。
1568年、織田信長が侵攻して来ると、三好三人衆の岩成友通らの援助を受けて徹底抗戦を図る。観音寺城の戦いで敗れた後は甲賀に拠点を移し、浅井・朝倉と連携して信長と争う。
朝倉、浅井滅亡後も足利将軍家・越後上杉・甲斐武田らを動員した信長包囲網の構築を御膳立てするなど、反信長の戦いを続けた。
信長の死後、豊臣氏の時代が訪れると、秀吉の御伽衆として足利義昭・斯波義銀らとともに仕えたとされ、秀吉の死後は豊臣秀頼の弓矢の師範を務めた。