SPAM_FILTER_作動中
[[山城武将一覧]]
*&ruby(アラキ ムラシゲ){荒木村重}; [#y6b315bf]
**レベル:数 [#ua849615]
60:7
**職業 [#r4f59ea6]
僧
**合戦配置陣 [#ree10782]
後詰
**タイプ [#d9242b99]
茶人
**戦闘開始時セリフ [#n3bfeacc]
#ref(荒木村重_01.jpg)~
~
#ref(荒木村重_02.jpg)
~
#ref(荒木村重3.jpg)
~
#ref(荒木村重4.jpg)
武人のたしなみじゃ。
お主も茶の湯くらい
学んだほうがよかろう……。
**構成 [#g9ef1fa0]
|>|>|CENTER:|||c
|~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~特殊技能|
|荒木村重|薙刀僧|60|結界&color(gray){▲};|[[逐電のすすめ]]、[[将軍の威光]]、[[沈黙の霧・壱]]、[[蘇生の秘薬]]|
|京鍛冶屋|鉄砲鍛冶|55||守護術|
|水破中忍|懐剣忍者|55|||
|足利上級陰陽|懐剣陰陽|55|結界||
|京の傾奇者|槍傾奇|55||[[詠唱の韻・極]]|
|将軍家兵法者|斧侍|55||守護術|
|鞍馬山伏|薙刀薬師|55|再生|[[蘇生・壱]]|
**特徴 [#k351ed68]
:[[逐電のすすめ]]|味方全体に[[レベル2]]の&color(orange){▲};&color(blue){▲};&color(red){▲};&color(green){▲};を付与する
**部隊アイテム [#mf009d7b]
-[[三つ盛木瓜銀立物]]
**ドロップアイテム [#r67e88ec]
-[[三つ盛木瓜金立物]]
-[[兵庫の壷]]
**大決戦伝令 [#wdc590cc]
**列伝 [#je64e8e8]
弥介、弥助、十二郎、道薫、摂津守、信濃守。荒木義村(一説には高村)の子とされる。1535年の生まれとされ、有力とされるが諸説ある。系譜はいまひとつはっきりしない。[[摂津>摂津和泉]]の豪族あたりであると想像される。~
~
父同様に池田長正とその子である[[池田勝正]]に仕える。1552年には合戦で功を上げ、このときに父から家督を譲られたとされる。その後池田二十一人衆にも列せられた。~
1568年に[[信長>織田信長]]が畿内に入ると主君である池田家は信長に降伏し[[和田惟政]]、[[伊丹親興]]とともに摂津の守護を任される。~
1570年には主君池田家が内部抗争を起こす。これによって勝正は池田家を追われ、子である直正が継ぐがまもなく追放されたようである。その後池田家は知正が継ぐ。この混乱に乗じて池田家での力を強める。~
1571年には[[三好>三好家]]、[[松永>松永久秀]]と主家池田家が通じて信長勢に反旗を翻し、和田惟政を攻撃、これを敗死させる(このときに戦死したかは諸説ある)。~
このころ元主君であった池田勝正が信長勢として原田城に入る。その後この混乱は信長の介入で収まるが、このころから村重は池田家からほぼ独立(池田家は村重の実質的配下となる)、同時に織田家に近づく。~
~
1573年には信長より摂津守を任じられ、名実ともに摂津を収める権利を得る。同年には将軍家側についた池田勝正を攻め、これを高野山に追放、翌年には[[伊丹氏>伊丹親興]]を攻めて居城である伊丹城に入城、これを有岡城と名前を変えて居城とする。~
この前後に池田家は池田城を回復するも、信長の命で荒木村重与力となる。完全な主従交代である。これにより村重は摂津を完全に支配下とする。~
その後も信長の下各地を転戦する。~
~
しかし1578年、信長に対して突然の謀反を起こす。原因は今もって不明であり、戦国期における謎のひとつである。諸説あるが一説には従兄弟の[[中川清秀]]が、当時織田と敵対していた[[本願寺]]勢に米を売り渡しているという風説が流れ、村重に異心ありとうわさされる。これの釈明に赴こうとした村重を清秀が弁明は無意味とさえぎり、謀反を決意したというのである。真偽は不明であるが一説として存在する。~
~
しかし、謀反を始めるとともに謀反を起こした[[高山右近>高山友照]]や従兄弟であった中川清秀はすぐに信長に降伏してしまう。そのため村重は有岡城に籠城、10ヶ月もの抵抗を続ける。しかし村重は降伏せずに子である村安が守る尼崎城へ逃げる。この際城にいた妻子を見捨て単身で逃げた。そのため妻子は皆殺しになってしまう。後世にまで卑怯者と揶揄されるのはこのためである(なお、このときのことを村重自身が自嘲しており後に号を「道糞」として自分を嘲ていたという)。~
~
その後[[毛利家>毛利輝元]]に亡命する。~
1582年に信長が死去、[[秀吉>羽柴秀吉]]が台頭すると[[堺]]に帰還、荒木道薫(道糞は後に秀吉から許された経緯で道薫としている。どちらもドウクン、と読む言葉いじりである)と名乗り[[千利休>千宗易の店]]とも親交を深め、[[利休七哲>利休七哲の侘]]の一人に列せられる。1586年に死去(一説には1595年まで生きたともされている)。~
~
彼を語る上で最大の謎は1578年におこした謀反の理由である。いまもって定説を見ない。その後の動向からもいまひとつ計画性に欠ける。戦国期における大きな謎のひとつであろう。~
~
なお、浮世絵の世界では彼は1579年自害とされている。しかしこれは彼の子である岩佐又兵衛(浮世絵の祖といわれる)か、それに近い人物が改竄したと考えられて、信憑性は薄い。しかし、息子である岩佐又兵衛にとって、父が卑怯者であったと嘲笑されるのが耐えがたかったという心境は想像に難くない。有岡落城時に自害とすれば、武士の面目も立つ。そう考えての改竄であろう。
**その他情報 [#d878b93a]
- 4森羅万象之法 使用 效果不明 -- [[台湾革新巫女]] &new{2008-03-28 (金) 08:09:19};
- 逐電のすすめは「強制」ではなくレジスト可能です -- &new{2009-12-06 (日) 08:51:46};
- •逐電のすすめは更改:味方全体にレベル2の全体天恵 -- [[台灣天下創世]] &new{2011-03-08 (火) 15:33:04};
- 逐電の赤がかなり痛く、おまけに将軍家の威光まであるから、ゲリラ等では油断できません。 -- &new{2017-08-21 (月) 21:53:38};
#comment