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[[三好家]]
*&ruby(シマ サコン){島左近}; [#d9f609d2]
**レベル [#n187300a]
60-7
**職業 [#l20fdd26]
侍
**防衛陣 [#mec6748b]
後詰主将
**戦闘開始時セリフ [#j9c6ts5d]
#ref(島左近.jpg);
#ref(島左近.PNG);
**構成 [#d969a946]
|~名前|~種類|~レベル|~初期付与|~使用技|
|>|>|CENTER:|||c
|島左近|槍侍|60|&color(red){▲};|[[蘇生・壱]]、[[左近の血槍]]|
|楠流くノ一|忍者|55||[[蘇生・壱]]、[[結界破り・改]]、[[朧の術]]|
|四十九院僧兵|僧|55||[[因果応報]]|
|阿倍野陰陽隊|陰陽|55|||
|熊野強弓兵|弓神|55||[[詠唱の韻・極]]、[[三連射]]|
||鍛冶|55||[[仕掛け鎧・参]]、[[怒号・改]]|
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||||||
**詳細情報 [#h1946896]
-左近の血槍:天地人モーションの単体近接攻撃
--滅却がないと武士でも即死レベル。生命6000↑でも一撃で持っていかれるので後衛にもらさないように。
**ドロップアイテム [#z53e9812]
-[[左近獅子吼の槍]]
-砲術指南書四改
-[[無双の誉]]
**備考 [#y76755d4]
6/13変更済み
**列伝 [#r8fb0755]
筒井家の家臣。左近は通称。清興、勝猛。清胤、友之、昌仲とも言う。大和、近江、尾張、畿内、対馬などの出自の説があるが不明。もっとも有力なのは大和の国人の出身という説である。1540年ごろの生まれ
1566年に嶋城に乱入し、城を奪い取ったという話があるものの、これが左近であるという確証はない。~
筒井順慶に仕えて近隣にその武勇をとどろかせ、[[松倉右近(重信)>松倉重信]]とともに「筒井家の右近左近」と呼ばれ賞賛された。鬼左近とも呼ばれた。
[[筒井順慶]]の死後、筒井家は子の定次が継ぐもののこれと不和になり出奔、しばらくは浪人として過ごす。~
その後大和を領した[[羽柴秀長>木下秀長]]に仕える。死後その領地を継いだ秀長の養子(甥)である秀保にも仕えるが、その後まもなく秀保は跡継ぎがないまま死亡、家は取り潰しとなったので再び浪人する。このときすでに齢は50を超えており、このまま隠居を考えていたようである。
しかしその武勇を聞きつけた石田三成が懇願し、彼に仕える事になる。このとき三成は、自身の4万石のうち左近に3万石を与え、ほかの家臣に残りを与えると自分の収入がなくなるので左近の家に居候させてほしいとまで言ったという。~
結局彼は1万5千石で仕官することになる。三成の石高は4万石なので相当な高禄である。
その後は三成の朝鮮従軍にも従い、主に軍事面での補佐を行う。官僚的で政治に優れた三成と、武勇を誇る左近とは相性がよく、車の両輪のような役割を果たしたとされる。
関ヶ原合戦の前、西軍は各所で敗退を重ねており本戦を行う前からすでに士気は消沈しかかっていた。これをまずいと見た左近は本戦の前に勝利を勝ち取り、士気を高めようと枕瀬川の戦いを起こす。~
このときは相手の目の前で稲刈りを行い挑発、かかってきたところをいったん敗走したように見せかけて伏兵でこれを撃退したという。これを見ていた家康は心持穏やかではなかったと伝わっている。
関ヶ原本戦では獅子奮迅の働きをするものの合戦中に行方不明となっている。行方不明とはいえ、首が上がらなかったためで戦死と思われる。~
いくつかの資料によると敗色濃厚となったときに[[田中吉政]]と黒田長政の陣に突撃を敢行、田中陣を300メートルも後退させるほどのすさまじい突撃だったと記されている。このときの左近を後に両者は賞賛している。この突撃のときに戦死したとされているが、首はついに上がらなかった。
彼は名前は有名であるが実際のところ資料に乏しく、出自も不明であって特に前半生の実像ははっきりしない。名前の広まりも故 司馬遼太郎氏の小説によるところも大きいようである。~
なお、今作では三好家臣となっているが、三好家に使えたという事実は存在しない。
**その他情報 [#bff37c1d]
- 左近の血槍の攻撃力はかなり強烈で後衛なら即死レベル -- &new{2009-06-19 (金) 10:03:28};
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