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[[相模武将一覧]] *&ruby(ハガ ウジツグ){垪和氏続}; [#vc71b57d] **レベル:数 [#ua3842c1] 55:7 70:7 **職業 [#b3212c34] 神主 **合戦配置 [#x3f74484] 中備 **戦闘開始時セリフ [#l5435160] #ref(垪和開始1.jpg); ~ #ref(垪和開始2.jpg); ~ #ref(垪和開始3.jpg); ~ **構成 [#bd63d102] |>|>|CENTER:|||c |~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技| |垪和氏続|弓神主|55|&color(gray){▲};反射結界|[[点破]]〜[[弐>点破・弐]]、[[神楽舞]]、[[武運長久]]、[[神代の風]]、[[三貴神射儀]]、[[三連射]]、[[乱れ撃ち・参]]、[[狂風]]、[[神雷]]、[[神風]]、[[雷撃・参]]、[[破界の光・極]]、[[詠唱の韻・極]]、各種韻・参、[[全体解呪・弐]]、[[神の加護・参]]、[[死の唄・参]]、[[子守歌]]、[[沈黙の霧・壱]]、[[蘇生・壱]]| |川越衆精兵|薙刀侍|50||[[一所懸命・極]]、[[崩落の計]]、[[三>三連撃・改]][[〜>四連撃・改]][[五連撃・改]]、[[切り返し]]、[[全体看破]]、守護術| |修善寺僧|槍僧|50||[[戦勝の理]]、[[僧兵連撃・改]]、[[阿修羅槍]]、[[破界]]、[[凍気法輪]]、[[紅蓮法輪]]、[[凍気・参]]、[[紅蓮・参]]〜[[極>紅蓮・極]]、[[完全回復]]、[[全体完全回復]]、[[全体回復・四]]、[[小細工無用]]、[[全体喝破]]、[[霧散]]、[[全体解呪・弐]]、[[後光]]、[[仏の加護・参]]、[[冥護結界・弐]]、[[因果応報]]、[[一喝]]、[[仁王立ち]]、[[高速化・参]]| |武蔵野薬採り|懐剣薬師|50||[[禍因の風]]、[[刹雷]]、[[裏鬼門]]、[[蛇紋孔・弐]]、[[完全治療]]、[[全体完全治療]]、[[治療・四]]、[[全体治療・四]]、[[救護・参]]、[[全体救護・弐]]、[[活身・四]]、[[防御呪霧・四]]、[[攻撃呪霧・四]]、[[天狗法力]]、[[霧散]]、[[全体解呪・弐]]、[[蘇生・壱]]| |吉原花魁|傘傾奇|50||〜龍閃、〜衝斬・弐、[[絢爛三連]]、[[双光刃]]、[[詠唱の韻・極]]、[[意気衝天・四]]、[[全体看破]]、[[堅陣の謡・参]]、[[凶変の謡・弐]]、[[不治の謡]]、[[荒廃の謡]]、[[蝸牛の謡]]、[[祓いの調]]、各種槌舞・参、[[水祭の舞・弐]]| |小田原石工|棍棒鍛冶|50||[[迅速破砕撃]]、[[怒号]]、[[仕掛け鎧・参]]、[[仁王立ち]]、守護術| |伊豆衆闘兵|懐剣陰陽|50||[[轟雷]]等各種陰陽道全体術、[[雷斧]]等各種準備無し属性単体術、[[呪縛・参]]、[[暗黒呪霧・四]]、[[低速呪霧・四]]| |垪和氏続|弓神主|55|&color(gray){▲};|| |川越衆精兵|薙刀侍|50||守護術| |修善寺僧|槍僧|50||''[[完全回復]]''、''[[全体完全回復]]''、''[[大日如来秘法]]''| |武蔵野薬採り|懐剣薬師|50||| |吉原花魁|傘傾奇|50||''[[詠唱の韻・極]]''| |小田原石工|棍棒鍛冶|50||守護術| |伊豆衆闘兵|懐剣陰陽|50||| **備考 [#aacb7ae8] -撃破すると対応する後詰副将・中備武将を弱体 -対応する中備副将・中備武将を撃破することで弱体 -争覇変更済み **特徴 [#tb17a447] -1の[[点破]]は後衛即死級 -1の[[三貴神射儀]]は後衛に2000〜3000程度 -[[神楽舞]]でつく&color(red){▲};は相当強力。また、詠唱持ちが2枚なので看破には気を配ること。 -弓攻撃が強力なので、1への沈黙は慎重に。 //-1の[[点破・弐]]は後衛即死級、[[三貴神射儀]]は後衛に2000〜3000程度。本人の言ほどに弱くはない。 //-術使いが多いので要注意。 **ドロップアイテム [#u4d7747f] -[[魂迎弓・改]] -[[評定衆烏帽子]] -[[格式帳]] **列伝 [#p9a1e927] 垪和又太郎の子と言われるものの不明。生年も不明(信長の野望では1540年生となっているが確証は皆無)。伊予守。~ ~ 垪和氏は美作国の出自といわれるが実際のところ不明であり、室町幕府の[[奉公衆]]を勤めていたとも言われているがこれも不明。[[駿河]]の土豪という説もある。~ 伊勢宗瑞(北条早雲)の代から仕えていた名跡であり、[[相模]]中郡沼部郷および[[武蔵]]小沢郷、相模東郡千束七木などに1128貫675文を知行していた。これは富永氏([[富永直勝]]の家)と並ぶ、一門を除くと最高クラスの知行高である。~ ~ 1557年に家督を継いただといわれているもののその後1569年までは書物から姿を消し、その間の動向は不明である。国衆なみの扱いを受け、評定衆、虎印判状の奉行も勤めたとされる。[[松山衆]]に列せられている。~ ~ 1569年、[[武田氏>武田家]]との同盟が破れると薩垂峠に布陣したり駿河興国寺城に城主として入るなど、駿河方面での守備に奔走する。このときは[[武田信玄]]からの攻撃を防ぐ功をあげている。~ その後書物から再び姿を消す。なお、1579年に垪和又太郎が[[氏直>○○の恩義]]から一字もらっているものの、これはどうやら氏続の子か一族のようで、彼本人ではない。~ ~ 1582年、神流川の戦で[[滝川一益]]を破り[[北条氏政]]から賞賛されたのを最後に書物から姿を消す。没年は同年の1582年といわれているものの確証はない。~ 江戸期の山鹿素行の武家事紀にも賞賛されているが、後世の武勇の誉れも高い割には謎の多い人物である。しかしながら1569年のように占領直後の城の城主に任命されるなど、信頼の厚かった人物のようである。~ **その他情報 [#ifc65b2b] - はがうじつぐ と読む! -- &new{2011-05-25 (水) 21:36:31}; #comment