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[[独眼竜の野望]]~ [[人取橋]] *&ruby(そうまよしたね){相馬義胤}; [#s8bbe90e] **レベル:数 [#b294e065] 71:6 **構成 [#e61668fc] |>|>|CENTER:|||c |~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技| |相馬義胤|棍棒薬師|71|&color(gray){▲};|''[[陸奥の凶風]]''、[[凶風]]〜[[弐>凶風・弐]]、[[刹雷]]、[[難治撃]]、[[苦悶の霧]]、[[裏鬼門]]、[[黒呪の霧]]、[[沈黙の霧・壱]]、[[全体喝破]]| |相馬盛胤|棍棒侍|66|&color(orange){▲};&color(red){▲};|[[三>三連撃]]〜[[五連撃]]、[[我武者羅・改]]、[[崩落の計]]、[[全体看破]]| |相馬郷胤|懐剣二刀忍者|66|&color(red){▲};&color(green){▲};|[[奪命三>奪命三連]]〜[[五連>奪命五連]]、[[三>三連撃]]〜[[五連撃]]、[[瞬殺閃]]、[[神力両断・改]]、[[結界破り]]、[[抗術破り]]、[[暗殺乱舞]]、[[破紋両断]]、[[破紋乱射]]、各種遁術・極、[[看破・弐]]、[[全体看破]]、[[地勢看破]]、[[霧散霧消]]| |水谷胤重|陰陽|66|結界|[[陰陽道系全体術>陰陽師特化技能#of0469a7]]、[[氷雨]]、[[鎌風]]、[[千紫万紅]]、[[黒道凶禍]]、[[暗黒呪霧・参]]、[[低速呪霧・参]]、[[気合呪霧・壱]]、[[呪縛・参]]| |泉田胤清|薙刀侍|66|&color(orange){▲};&color(blue){▲};|[[三>三連撃]]〜[[五連撃]]、[[全体看破]]、[[崩落の計]]、[[一所懸命・極]]、守護術| |同慶寺院主|杖僧|66|反射結界|''[[大日如来秘法]]''、''[[完全回復]]''、''[[全体完全回復]]''、[[僧兵連撃・改]]、[[気合撃・参]]、[[阿修羅槍]]、[[閻魔撃・弐]]、[[双界法句]]、[[全体喝破]]、[[後光]]| **特徴 [#f0b0781a] -1が薬師とは思えないほど手ごわい。 --陸奥の凶風:[[禍因の風]]+全体に一定時間妖術耐性低下状態(15%)を付与。 --1の難治撃で2820ダメージ。刹雷で同程度のダメージ。 --黒呪の霧・沈黙の霧などの事故技能搭載。使用率も成功率も高い。 //小田原実装に伴って調整されたようです -陸奥の凶風による妖術耐性低下状態からの凶風・陰陽術・遁術の平押しが非常にきつい。[[浄化]]系があると便利。 -2と3の殴りも非常に痛く、4が多用する黒道凶禍と相まって釣り漏れると非常に危険な状態になる。 -5のみが守護術を持つ。その生命は6万前後。 **生息地域 [#w7262f6c] -[[人取橋]]:[[相馬隆胤]]撃破後陣幕内にPOP **ドロップアイテム [#jd8fa607] -[[義胤討取の証>討取の証]]:党員全員が入手可能。使用すると以下のアイテムに変化する。 --[[宝玉原石]]x1〜3:鍛練度6〜8の宝玉にランダムで変化。形はランダム。 --[[殊勲之証]]:確率で入手。価値1。 --[[意地の白銀棒]]:確率で入手。 **関連クエスト [#qf3cb301] -[[討伐の試練>人取橋#ebdc7f52]] -[[会津制覇>人取橋#aff77524]] **戦国絵巻 [#k83b2b84] [[武勇伝]] 各地で伊達氏と抗争を展開し、一進一退 の攻防を続けた。伊達政宗の登場以後は 劣勢に立たされるが、小田原の陣に参陣 して所領を安堵され、危機を脱する。 **列伝 [#m6d84aaa] :相馬 義胤(そうま よしたね)|1548-1635 陸奥相馬氏第16代当主。幼き頃から父・盛胤に付き従い、伊達晴宗・輝宗・政宗の三代と争った。~ [[人取橋]]の戦いでは佐竹方に付き、伊達氏と戦う。~ 1590年、弟・[[隆胤>相馬隆胤]]が小豆畑の戦いで討死。この戦いは[[豊臣秀吉]]の惣無事令の後に政宗に奪われた所領を奪還すべく攻めたものであったが、逆に政宗が小田原に参陣中であったことを伊達家臣片倉景綱に咎められ、伊達家が秀吉から相馬家討伐の許可を得る原因となった。~ しかし、政宗が秀吉の上洛命令に従わずに蘆名家を滅ぼしたことは奥羽諸大名のみならず豊臣政権からも警戒された。義胤はすでに豊臣家へ恭順していた[[佐竹義重]]や[[徳川家康]]に通じていた[[最上義光]]と友好的であったことも幸いし、秀吉が奥州仕置に向かう途中の宇都宮で所領を安堵される。豊臣政権下においては会津に転封された[[蒲生氏郷]]等と共に伊達政宗封じの一翼を担うこととなった。~ しかし、政宗が秀吉の上洛命令に従わずに蘆名家を滅ぼしたことは奥羽諸大名のみならず豊臣政権からも警戒さていた。義胤はすでに豊臣家へ恭順していた[[佐竹義重]]や[[徳川家康]]に通じていた[[最上義光]]と友好的であったことも幸いし、秀吉が奥州仕置に向かう途中の宇都宮で所領を安堵される。豊臣政権下においては会津に転封された[[蒲生氏郷]]等と共に伊達政宗封じの一翼を担うこととなった。~ その後は石田家([[石田三成]])、佐竹家([[佐竹義宣]])と親交を深め、朝鮮の役の後には[[加藤清正]]、[[福島正則]]等と対立する三成を義宣とともに救い出した。このとき狼狽する三成をみて、三成を大将の器量ではないと考えたが、伊達氏との確執や所領の地理的要因から関ヶ原の戦いでは佐竹家と命運を共にした。~ 西軍が敗れ、佐竹家が出羽へ転封され、江戸から遠ざけられると、相馬家も連座して改易された。~ しかし、嫡男利胤がこれに訴訟を起こして運動したことや伊達政宗、[[本多正信]]のとりなしもあり、改易は撤回され再び所領安堵となった。墓所は同慶寺にある。 しかし、嫡男利胤がこれに訴訟を起こしたことや伊達政宗、[[本多正信]]のとりなしもあり、改易は撤回され再び所領安堵となった。墓所は同慶寺にある。 :相馬盛胤(そうま もりたね)|1529-1601 義胤、[[隆胤>相馬隆胤]]、郷胤の父。~ 天文の乱で稙宗派として戦った父・顕胤の跡を継いだ。晴宗派の伊達氏との確執が続く中、妹の嫁ぎ先である近隣の田村氏とは和睦して所領の基盤を固めた。半世紀に渡り、伊達氏と激しい抗争を繰り広げた。 :相馬郷胤(そうま さとたね)|生年不詳-1601 義胤の弟。父盛胤の隠居地、田中城で同居。盛胤が中村城に移った後は田中城代となる。 :水谷胤重(みずがい たねしげ)|1538-1606 相馬氏の重臣。~ [[関ヶ原の戦い>関ヶ原の陣]]の直前、伊達政宗が相馬領を通過して帰国しようとした際、家中を説得し、領内通過に便宜を図った。~ 1601年には伊達勢との連携による[[上杉領>上杉景勝]]への侵攻を進言。~ 戦後、相馬氏は改易されかけたが、政宗のとりなしもあり改易を免れることとなった。 :泉田胤清|生年不詳-1601 相馬一族。義胤に従い、各地を転戦した。 **その他情報 [#l6cdeaa6] #pcomment IP:175.179.78.216 TIME:"2015-10-29 (木) 10:30:05" REFERER:"http://wiki.ohmynobu.net/nol/index.php?cmd=edit&page=%C1%EA%C7%CF%B5%C1%B0%FD" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/46.0.2490.80 Safari/537.36"