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[[相模武将一覧]]
*&ruby(ホウジョウ ツナシゲ){北条綱成}; [#k6e4eb9e]
**レベル:数 [#vc7c7680]
75:7
**職業 [#wc9281c8]
侍
**合戦配置 [#x3f74484]
後詰
**戦闘開始セリフ [#jfb9d343]
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~
#ref(綱成開始2.jpg);
~
#ref(綱成開始3.jpg);
~
#ref(綱成開始4.jpg);
~
**構成 [#eb8f400b]
|>|>|CENTER:|||c
|~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技|
|北条綱成|二刀侍|60||[[地黄八幡の護]]、[[天地二段・改]]、[[一所懸命・極]]、[[沈黙の霧・壱]]、[[蘇生の秘薬]]、気合削り、守護術|
|乱波中忍|懐剣二刀忍者|55|||
|早雲寺高僧|薙刀僧|55|反射結界|[[完全回復]]|
|伊豆衆精鋭|懐剣陰陽|55|結界||
|箱根山神官|剣巫女|55||[[詠唱の韻・極]]|
|相模鍛冶|鉄砲鍛冶|55||守護術|
|箱根山山伏|錫杖薬師|55|再生||
**備考 [#xeedf400]
-撃破すると対応する四天王・後詰武将を弱体
-対応する後詰副将・後詰武将撃破で弱体
**特徴 [#ud7ba59e]
-[[地黄八幡の護]]:全体攻撃付与+全体解呪+速効活力+全体救護(3000程度)
**ドロップアイテム [#m3ed6d67]
-[[地黄八幡本旗印]]
-[[地黄八幡筋兜]]
-[[地黄八幡具足]]
**武将列伝 [#ff381bd6]
1515年生。[[福島正成]]の子。孫九郎。左衛門佐、左衛門太夫、上総介。~
~
1536年に父・[[福島正成]]が[[今川義元]]の策略により[[武田勢>武田家]]に討たれると[[北条家]]に身を寄せる。~
しかし、この時期には異説があり、1521年に[[福島正成]]が原友胤に討たれ戦死し、そのときに堀内氏の助けで[[北条家]]に身を寄せたという説である。~
この二説の時期には実に15年もの開きがある。なぜこのような資料の食い違いが生じたのであろうか?~
これは考えられることはいくつかあるが、ひとつは[[福島正成]]が二人いるという可能性である。当時の名前の習慣として名前は忌名としており、普通は使わないで通名と呼ばれるものを使う。。~
有名な例を挙げると[[織田信長]]である。彼は姓を織田、名を信長、通名を上総介としている。つまり署名するときは織田上総介と書くことも多く、郎党が名乗る場合も「織田の上総の〜」といった具合である。~
つまり、[[福島正成]]の場合は通名を左衛門太夫、つまり福島左衛門太夫と署名することが多く、[[福島正成]]と署名することは少ないのである。また、一族で同じ通名を使用している場合が多分に多く(これは多くに見られる風習である)、綱成も同じ通名を名乗っている。こう考えていくと、さて彼の父親はどちらなのであろうか?~
まず21年説であるが、討たれたのは福島某と表記されており、正成とは特定されていない。このためこちらの説は否定的な意見が多い。~
次に36年説であるが、これをとると[[北条家]]へ逃れた後の動向に不可解な点が現れる。なぜならば、彼は後述するように当時の[[北条家]]当主の子である北条為昌の後見人となっており、仕え始めてからわずか数年の人物に(さらには[[今川氏>今川家]]にとって謀反人の子であることも忘れてはならない)、自身の第三子の後見人など勤めさせ、さらには養子にまでするだろうか?~
しかしこれが仕えたのが子供のころならば話が通る。~
こう考えると、綱成が[[北条家]]に身を寄せたのは、幼少のころ、つまり、現在否定的である21年説をとったほうが自然ではないだろうか?~
さて、考証はこのくらいで彼の列伝に移ろう。~
~
21年説によると幼少に北条家に逃れた彼は、氏綱に教育を受け、成長した後は氏綱の信頼を得、ついには北条為昌の後見人となるとともに氏綱は彼に娘を娶らす。ここからは両説ともに一致している。~
~
1543年に北条為昌が23歳で病死すると、その後をついで玉縄城主となる。このころに姓を福島から北条に改める。~
彼の名を高めたのは[[川越]]夜戦であろう。当時川越城に守将として滞在していた彼はわずか数千の兵で7万とも言われた敵の包囲から城を守ったことである。~
また、[[北条家]]の多くの戦に参戦し、その武勇を誇っている。
[[氏康>北条氏康]]の死後、彼は子[[北条氏繁]]に家督を譲り出家し道感と名乗る。~
しかし氏繁は彼に先立ち早世してしまい、家督はその子に譲られることとなる。~
綱成はその約10年後、1587年、73歳でこの世を去った。~
~
八幡大菩薩を深く信仰し毎月15日には身を清め、戦のときは五色備えの黄を率い朽葉色に染めた四半の練絹に「八幡」と墨で書いた旗を掲げ、勝った勝ったと叫んで切り込んだ。その姿は「地黄八幡」と呼ばれ敵からは恐れられ、味方の士気を高めた。~
まさに後北条の家臣団の中で最高の武勇の誉れであろう。~
**その他情報 [#x12d5922]
- 地黄八幡の護は「防御力が上昇した」とでますが効果は上記のとおりです。もしかしたら内部で防御もあがってるかも知れませんが -- &new{2008-06-30 (月) 03:19:22};
- 表示は「攻撃力が上昇した」でした。 -- &new{2009-06-17 (水) 05:00:19};
- 地黄八幡具足 もうほぼ手に入らないらしいです -- &new{2020-08-09 (日) 08:06:14};
#comment
IP:119.175.104.17 TIME:"2020-08-09 (日) 08:06:14" REFERER:"http://wiki.ohmynobu.net/nol/index.php?%CB%CC%BE%F2%B9%CB%C0%AE" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Linux; Android 10; S3-SH) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/84.0.4147.111 Mobile Safari/537.36"