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[[近江武将一覧]] *&ruby(イソノ カズマサ){磯野員昌}; [#b54efefa] #ref(磯野員昌_全身_01.jpg,center) **レベル:数 [#z4d290c9] 60:7 75:7 **合戦配置陣 [#jd048b22] 後詰 **タイプ [#z7561633] 猛将 **戦闘開始時セリフ [#rcb2d8ab] #ref(磯野員昌_01.jpg) ○○○○! はっはっは、また会えたな! 今日こそはわしが勝つぞ! **構成 [#o6cf4a46] |>|>|CENTER:|||c |~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技| |磯野員昌|刀侍|60||[[破突十一段]]、[[武運長久]]、[[霧散霧消]]、守護術| |甲賀中忍|刀忍者|55||[[神力両断・改]]、各種遁術・極| |福田寺高僧|槍僧|55||[[全体完全回復]]、[[完全回復]]、[[後光]]、[[気合撃・四]]| |殿原衆精鋭|懐剣陰陽|55||[[万雷]]、[[竜巻]]、[[結界・参]]、[[呪縛・参]]| |竹生島神官|剣神主|55||[[詠唱の韻・極]]、[[神雷]]、[[神風]]| |国友上級鍛冶|鉄砲鍛冶|55||[[三段撃ち]]、[[陽動]]、守護術| |伊吹山山伏|懐剣薬師|55||[[蘇生・壱]]、[[霧散]]| **特徴 [#ja5c9e36] -[[破突十一段]]:強力な五連撃 **部隊アイテム [#c9692262] -[[百人斬・改]] -[[十一段崩しの大槍]] **ドロップアイテム [#u3ac86cf] -[[千人斬]] -[[姉川十一段崩し]] **武将列伝 [#u5d480c5] 丹波守、伊香郡高月町磯野領主、磯野城、佐和山城主。[[織田信行]]の子・信澄の養父でもある。~ ~ 員昌は丹波守を称し、[[近江]]の戦国大名[[浅井氏>浅井家]]に属して数々の戦場に出陣し、磯野氏歴代のなかでもっとも名をあらわした。員昌は浅井亮政が京極氏の拠る高島城攻撃を企図したとき、その軍議に加わり合戦になるとその先陣をつとめている。また、[[浅井氏>浅井家]]と[[六角氏>六角一族の屋敷]]とが戦った四つ木の合戦には、[[浅井氏>浅井家]]の一方の大将として出陣し奮戦した。~ ~ [[浅井氏>浅井家]]は北近江の大名に成長したとはいえ、南近江の戦国大名・[[六角氏>六角一族の屋敷]]には押されぎみであった。永禄年間(1558〜69)、[[六角氏>六角一族の屋敷]]は坂田郡米原にある太尾城を占領し、[[浅井氏>浅井家]]を脅かした。太尾城は[[浅井氏>浅井家]]に属する国人・今井氏の支城で、これが占拠されたことは[[浅井>浅井家]]、今井両家はもとより、佐和山城の磯野氏にしても看過できない事態であった。今井定清は夜襲をもって太尾城を奪還しようとし、[[浅井長政]]に救援を求め、[[長政>浅井長政]]は磯野員昌に今井氏応援を命じた。ところが、今井氏と磯野氏の間で夜襲に関する取り決めが不備だったのか、今井定清は員昌の部下によって誤殺されてしまった。~ ~ 合戦後、定清の思いがけぬ死に対して[[長政>浅井長政]]は弔慰を示し、員昌も部下の失態を深く詫びて今井氏に起請文を送っている。そして、定清の遺児をもりたてることを約束している。しかし、この今井定清横死のことは、今井氏の進退の曖昧さを疑った[[浅井氏>浅井家]]の陰謀が背後にあったともいわれる。 ~ ~ やがて、[[尾張]]の[[織田信長]]が勢力を拡大するようになり、[[長政>浅井長政]]は[[信長>織田信長]]の妹・お市を妻に迎えて[[信長>織田信長]]と同盟関係を結んだ。しかし、元亀元年(1570)、[[信長>織田信長]]は[[浅井氏>浅井家]]と親しい、[[越前]]・[[朝倉氏>朝倉家]]攻めを開始した。このとき、[[浅井氏>浅井家]]は[[朝倉氏>朝倉家]]を支援するか、[[信長>織田家]]に味方するかで意見が分かれたが、結局、[[朝倉氏>朝倉家]]を支援して[[信長>織田家]]に対立する道を選んだのである。~ ~ かくして同年6月、[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]連合軍と[[浅井>浅井家]]・[[朝倉>朝倉家]]連合軍とが[[姉川]]で激突するに至ったのである。これが、戦国史上有名な「[[姉川の合戦>姉川]]」である。この戦いに磯野員昌は[[浅井軍>浅井家]]の先鋒となり、精兵五百余を率いて[[織田軍>織田家]]に突撃した。磯野勢は[[織田>織田家]]方の[[坂井政尚]]の軍を一蹴し、進んで池田信輝の軍を撃破し、さらに[[木下藤吉郎>羽柴秀吉]]、[[柴田勝家]]の陣を突破し、[[森長可]]の軍と戦いを交える奮戦ぶりを見せた。しかし、衆寡敵せず、[[浅井>浅井家]]・[[朝倉>朝倉家]]連合軍は[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]連合軍のために敗軍となった。大勢の決したことを察した員昌は、ただちに兵をまとめ、[[氏家>氏家卜全]]・[[安藤>安藤守就]]らの諸軍を突破して、居城・佐和山城に逃げ帰った。~ ~ ほどなく、[[織田軍>織田家]]が佐和山城を攻撃してきたが、員昌は城を堅く守ってこれを撃退した。以後、佐和山城に立て籠って、[[織田軍>織田家]]の包囲勢と対峙した。員昌は包囲軍の将・[[丹羽長秀]]より降伏を勧められたが、それをいれず籠城を続けた。翌元亀二年、[[信長>織田信長]]は兵二万を率いて[[近江]]に出陣してきた。その事態に際して員昌は、[[小谷城>小谷]]の[[長政>浅井長政]]に援兵を求めたが援兵は来ず、ついに員昌は佐和山城を出て[[小谷城>小谷]]に入らんとした。しかし、員昌を疑う[[長政>浅井長政]]は入城を拒んだため、ついに員昌は[[織田軍>織田家]]に投降するしかなかった。その後、[[近江]]・[[浅井氏>浅井家]]は[[織田軍>織田家]]の前に滅亡した。~ ~ [[信長>織田信長]]は降った員昌を高島郡に移し、小川城主に封じた。[[信長>織田信長]]としては、[[近江]]土着の磯野氏をして[[近江国>近江]]の治安にあたらせる狙いがあったようで、員昌も[[信長>織田信長]]から相応の権限を与えられていたようだ。しかし、のちに[[信長>織田信長]]の怒りを買い、出奔して行方知れずになったという。系図によれば、員昌には男子一人、女子二人の子どもがあったといい、長男は加茂三郎と称し、のちに森惣左衛門と改め、森村に蟄居したと伝えている。 ~ ~ **その他情報 [#sbb379f6] - 破刃十一段は五連撃のモーション。滅却なし武士に4回ヒットの一回よけで4000overのダメ -- &new{2007-08-10 (金) 19:44:06}; - 破突十一段 防880薬師 4100ダメ -- [[台湾革新巫女]] &new{2008-01-25 (金) 15:20:15}; #comment IP:126.91.154.108 TIME:"2016-08-07 (日) 23:32:13" REFERER:"http://wiki.ohmynobu.net/nol/index.php" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; WOW64; Trident/7.0; rv:11.0) like Gecko"