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美濃と南近江における交通の要衝であり1600年の関ヶ原の戦いはあまりにも有名。
秀吉が1598年に死亡し、徳川家康と真っ向から渡り合えるだけの地位にあった前田利家も同年に死去すると、天下は徳川に大きく傾いていった。
それを危惧した石田三成など官僚派は家康に対立するも政争では不利な立場となり石田三成は蟄居させられていた。しかし家康が上杉景勝に対する征討軍を旗揚げすると、それに呼応して三成も挙兵する(表向きは毛利家がこの総大将となった)。
1600年に入り両軍は美濃の大垣(石田勢)と赤坂(徳川勢)でにらみを利かせ合ったが10月半ばに両軍とも関ヶ原に布陣する。数の上では石田方10万徳川方7万と石田方が多く(徳川家本体の35000は信濃で真田勢に足止めされて間に合わず)、布陣においても石田勢が徳川勢を包囲する形となっていた。
しかし石田勢の内情は、勝手に布陣した上白黒はっきりしない小早川秀秋(布陣時すでに徳川方につく意思を固めていたが三成が出した関白職のエサにつられ再度揺れていた)率いる15000に加え、すでに吉川広家の内通で戦闘不能に陥らされている毛利勢15000ほか多数の内通を決めている者(脇坂安治、朽木元綱ら)、内通はしていないものの傍観を決め込んでいる者(島津義弘ら)を抱えていた。
その上、内通が考えられなかった人物らも、17000を率いる宇喜多秀家は28歳でありいくらかの戦で武功を上げているものの若く、さらにお家騒動で戦働きの得意な重臣が多数離反していた。6000を率いる小西行長も得意は水軍と兵站であり陸戦が得意とはいえず、三成も官僚としての能力は高かったものの戦働きでは芳しい戦果を上げておらず、本当に戦上手と呼べるのは5700を率いる大谷吉継と三成家臣の島左近程度という状況であった。一方徳川方は内通者はなく、さらには福島正則や本多忠勝、井伊直政ら戦で確固たる武功を持つ武将が多数存在していた。
実際に戦が始まると石田勢は実際に動かすことが出来た35000あまりの兵で歴戦の将を撃退して善戦し、一時優勢に立つ。しかし昼ごろには威嚇を受けた小早川秀秋が寝返る。これに対応する陣をあらかじめ引いて撃退していた大谷吉継隊も、周りの諸将が寝返り総攻撃をうけついに壊滅、ここにいたり西軍は総崩れとなった。
その後三成は捕らえられ斬首、これにより天下は徳川家へと大きく傾くこととなった。